ある春、一人の女の子と暮らしてた。
胸のあたりまで伸ばした髪は縮毛矯正かけたみたいにまっすぐだった。
華奢な身体といつも綺麗に着てるフリルのついたワンピース、もこもこのパジャマや可愛らしい雰囲気から想像されるよりも、その子は背が高かった。多分160㎝後半。
よく見ると骨格もしっかりしてて、広くて薄い肩が印象的だった。
大きくはない可愛らしい目にきれいな肌、あっさりめの顔に鼻の高さが目立って、無駄な肉のついてないフェイスラインが丸顔の私には羨ましかった。
性格はこんな言い方は偏見かもしれないけど、「ザ・女の子」って感じ。
世渡りが上手で、愛嬌があって、しかもその愛嬌を自分でコントロールして振り撒ける。
「愛嬌を振りまく必要がない」と感じた人に対してはとことん気が強くて、わがままで、でも脆くて、弱くて危なっかしくて、「守ってあげたい」と自然と思わせるような愛らしさとか弱さを併せ持ってた。猫みたいな子だった。
彼女はよく、いわゆる「病んだ」状態になった。
彼女はMtFだった。男性の身体で生まれた女性だった。
彼女が華奢で痩せている理由の一つに、身体の成長への恐れもあったのかもしれないな、と勝手に思う。本当のところはわからないけど。
そういう直接的な根本的な深刻な悩みを打ち明けるタイプの子じゃなかった。自分ひとりで抱え込んで、どうしようもできなくなってあふれ出してやっと苦しさを表に出すような子だった。
理由を教えてくれたこともほとんどないし、聞かれることも嫌がるけど、ただ私はこの猫みたいな子が、いつか私の目の前から消えて一人で居なくなってしまうんじゃないかと怖くて、頼まれてもないのに必死にそばにいて、彼女自身から彼女を守ろうとした。
彼女が特別だったという訳ではないと思うけど、どうしても放っておけなかった。
純粋でまっすぐな心が好きだったし、内発的になったのか外発的にさせられたのか、多くのことを考える性格が好きだった。ただおこがましいけれど、「愛着」と「同情」があったことも否定できないと思う。
私たちが暮らしていたのは、駅から少し離れた、あまり人通りの多くない商店街の二階だった。
一階が文房具屋になっていて、店の奥の階段を上ると木造の天井の低い部屋に着く。
通りに面した大きい窓があって、真ん中が出窓みたいに張り出している不思議な作りだった。
階段を上った左手には洗面台と鏡があって、正面には4つ椅子の揃った広いダイニングテーブルだけが置かれている。右手には小さな部屋が二つあった。
手前側の一番小さな部屋が私の勉強スペースで、勉強机とソファサイズの狭いベッドだけがある。奥側が私の部屋よりもう少し広い彼女の部屋で、薄いピンクのカバーがかかったシングルベッドと、彼女の持ち物全てが収納されている棚があった。
彼女の趣味で、部屋は花で溢れていた。生きた花は少なくて、私の勉強机の上と洗面台の鏡の横に1つずつある花瓶だけだった。ドライフラワーが天井から吊るされたり、いたるところに置かれていて、壁が見えるスペースはほとんどないくらいに花で埋め尽くされていた。
電気を付けることはほぼなかった。これも彼女が電気が嫌いだったから。私もあまり眩しいのは好きじゃなくて、カーテンも付けていない大きな窓から入ってくる光と、勉強するときに付ける卓上ライトだけで十分だった。そもそも夜は寝るとき以外あまり家に帰ってこないし、不便に感じたことはなかった。
部屋中を埋め尽くすくすんだ色のドライフラワーと、電気を付けずに差し込む日光だけで過ごしていたことも相まって、部屋の中はいつももやがかかったように白茶けていた。
彼女は食に対して執着がなかった。放っておくと何も食べないで1日過ごしていそうだった。
私は逆に食べることが好きで、朝ごはんをしっかり食べないと動けなかったので、毎朝きっちりハムとチーズとトマトのパニーニやオープンサンド、マーマレードジャムを載せたトーストに目玉焼きとウインナーなど用意して食べていた。
詳しく聞いていないが、彼女は夜の間にバイトに出かける。バーのようなところで働いているらしい。本人はお酒を飲んできていないのか、強いのかわからないが、酔って帰ってくることはなかった。お酒の匂いがしたこともなかった。そして何も食べずに帰ってきた。深夜か朝方にシャワーを浴びていることが多かった。
朝ご飯の支度が終わると、私より先に起きて部屋着でうろついている彼女に、「どうせ自分では面倒臭がってごはん準備しないんだから今のうちに食べときなよ」と声を掛ける。文句を言いながら、彼女は私が主食として用意したパンだけを食べる。彼女は決まって私の正面には座らず、お誕生日席みたいに横に座っていた。文句を言う割によく食べていた。生活リズムの違う私たちが唯一集まる時間だった。
ある日また彼女が病んでた。
私が帰ってきたころには泣き止んでいた。いつもそうだったように、私がいない間に泣いたみたいだった。泣きはらした目と掠れた声であ、泣いていたんだ、と気付く。
理由はわからないけど、いつも3日ほどあれば普通の生活に戻れるのに、今回は5日を過ぎても彼女の様子が戻らなかった。朝ごはんも次第に食べなくなって、部屋にいるのかいないのかもわからないくらい、共有スペースに出てくることがなくなった。美意識の高い彼女は頻繁に鏡を覗きに来るのに、それもなかった。
大学の授業や課題でそれなりに忙しかったが、さすがに心配になって「大丈夫?」と聞くと何も言わない。あの子は嘘をつかない子だった。そういうところも好きだった。でも私を頼ってくれないことが嫌いだった。頼ってくれない彼女が嫌だったんじゃなくて、私じゃ彼女の悩みに共感できないことも知っていたし、力になれない自分が不甲斐なくて、どうしようもできない状況が嫌だった。
天気がずっと悪かった。じとじと降っていた雨のせいで、部屋はずっと真っ暗だった。
彼女がどれだけ苦しんでいても、世界はどんどん進んでいくし、私はそれに付いていくしかなかった。
一週間ほど経って、彼女がいなくなった。
朝になっても彼女が家にいる気配がなくて、1日待っても帰ってこなくて、ようやくもしかしたら帰ってこないのかもしれないと思い始めた。ずっと、いくら彼女の気が落ちていても、彼女が私の前から去ることはないと思っていたのかもしれないし、そう信じたかったのかもしれないし、その可能性すら自分の頭の中から消し去りたかったのかもしれないと思った。
私の中でだんだん不安が大きくなってきて、夜になって、12時をまわった。カーテンのない窓から土砂降りの通りが見えて、ふと傘立てに目をやると彼女のレースのついた白い傘が残っていて、大きい音で鳴ってる雷が怖くて、彼女のそばにいたくてたまらなくなって家を出た。
街中を探し回った。彼女は電気が嫌いだから、街灯のない通りまで出ていった。白い傘がちらつく度に振り返ったけど、ぜんぶ彼女じゃなかった。当たり前だった。彼女は傘を持って出ていないのに。夜遅いし暗いし人気もないし、危ないし怖かったし、不安な気持ちを吹き飛ばしたくて走っていた。道行く黒いコートのサラリーマン風の男性には不審な目で見られてたけど、どうでも良くて、私たちには大事件が起きてるのに世界は至っていつも通りで私だけが変な人なのが理解できなくて、また涙が出た。傘なんかどうでも良いって思うのに、傘を放り出せない自分が所詮「普通の人」で、大多数の「普通」の世界に生きて、そこで「普通」に見られたくて行動しているみたいで、嫌になった。最後まで傘は手放さなかった。彼女は傘も持たずに雨に打たれているのに。私も一緒に雨に打たれたところで、何も彼女にとっての得にはならないけど、そんなことを考えること自体がずるい気がした。私のせいで彼女が苦しんでるわけでもないのに、罪悪感でいっぱいで彼女に謝りたかった。
スマホで時間を確認すると、1時になるところだった。私はスマホも手放すことができず、雨から守るようにコートのポケットにしまっていた。彼女は電話以外で連絡を取らない。どうせスマホも見ていない。持っているかも、電源が入っているかもわからない。
走り疲れて、呆然としていた。
恋愛とか友情とか名前を付けられないくらい、もっと包括的に、人として彼女のことが好きだった。彼女を幸せにしたい、幸せになってほしいとずっと思ってた。全部私の自分勝手な思いだった。彼女がどう思ってるかはわからないけど、少なくとも私が彼女のそばにいたいのは、彼女のためじゃなくて、全部自分のためだと思った。
彼女は、私のことはずっとあまり見えていなかったと思う。いつも大きなものを抱え過ぎていて、自分の足元を見る余裕なんてなかったと思う。彼女の中に私の存在がなかったって、彼女が幸せな人生を送ってそこに私が関与できていれば、それで良かった。でも、彼女が私の前から消えてしまうのが本当に怖かった。
依存してたのは私の方だった、と思った。
弱いのも私の方だったし、わがままなのも私のほうだった。いつも彼女に支えられてた。
彼女が居なくなっても、世界は進んで行った。
彼女のことを忘れたことはなかった。なかったはずだった。
なのにだんだん私は彼女の姿を鮮明に思い出すことができなくなって、ただ彼女を形容した文字の羅列だけが頭に残っていた。彼女と過ごしながら頭の中に描いた文字たちから、彼女の跡を確かめるように何度も彼女を思い描いた。
人の記憶なんて信用できない。もうどれが正解の彼女の姿なのか、どれが私の本当の気持ちなのかもわからない。
ただ不思議なもので、真っ暗な雨の夜の中にぼんやりと見えた、正確には見えなかった、見ることができなかった、見えるはずがなかったぼんやりとした白い影だけが、はっきりと記憶に残っている。
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